実はワタクシ、もう間もなくお引っ越し。
このお家ともバイバイ。
本をまとめるのが辛かった……!(笑)
だーーーいぶ前に、池波正太郎先生著作の鬼平犯科帳の中に、
「女という生き物には、過去(昔)もなく、将来(行く末)もなく、ただ一つ、現在(いま)の我が身があるのみだ」
という科白がある、ってな記事を書いたことがある。
女という生き物には、過去や未来はなく、現在の己しかないと言うなら、男という生き物には、過去や将来ばかりがあるのだろうか。
ま、少なくとも、現在よりも過去や将来の方が重いのは確かなような気がするな、男という生き物は。
──取り敢えず、今を生きろ、今を。どうなるかも判らない話を、何時までもしてないで寝ろ<家人へ
見たことのない屋敷の中に立っていた。
その屋敷はかなり広くて、見遣れる限りでは、とても立派な洋館だった。
長い廊下を進んで行くと、一つの部屋の扉に行き当たった。
引き返す気もなく、その、重い扉を開けた。
一言で例えるなら、欧風、となるその部屋には、黒檀で出来ているような、真っ黒な、とても大きな本棚があった。
本棚には、前面全てを覆う扉が付いていた。
それを引き開けた中には、びっしりと、そこそこに厚い本達が収まっていた。
収まっていた本達の内の一冊を手にし、思うまま表紙を開いてみた。
そこに記されていたのは、『悪魔の召還方法』だった。
一冊に付き悪魔一体の召還方法が詳細に綴られており、その方法は、一体ずつ全て違った。
そして、その本棚には、『全ての悪魔』の数だけ、本があった。
………………それを、読もうとした。
──という処で、目が覚めた。
……ってな訳で、以上、とーーーーーー……ても久し振りに、且つ気紛れに、思い出したよーに、家の相方が時々見る、『素敵』な夢の話を書いてみた。
いいなぁぁぁぁぁ、その本達、欲しいなぁぁぁぁぁ!
そんな本がびっしり詰まってる本棚がある図書室も欲しいなぁぁぁぁ!
真面目に『夢の図書室』だわ(笑)。
「女という生き物には、過去(昔)もなく、将来(行く末)もなく、ただ一つ、現在(いま)の我が身があるのみだ」。
────池波正太郎先生著作、鬼平犯科帳・第一巻収録、『本所・桜屋敷』の中の、長谷川平蔵の科白の一つ。
全てが全て、そうだ、とは言わないけれど、真理だ。
……好き、鬼平犯科帳。
TVや雑誌や新聞で、時折、『老老介護』の話題を見掛ける。
老老介護、と言っても、人の話ではなくて、ペットの話。
勿論、人の老老介護の話も、かなり見掛けるけれども。
近年、獣医学もかなり進歩して、犬猫に食べさせてはいけない食品が周知になって来たり、犬猫の病気や病気の治療法が解明されて来たりしている所為もあるのか、ペットの寿命は延びているんだとか。
今年でペットの猫が二十歳になった、なんて話もよく聞く。
──家の猫は、未だ二歳十ヶ月と二週間。
人間で言えば、未だ未だぴちぴちの、年頃のお嬢さん。例えるなら、嫁に行き時。
でも、人よりも遥かに早く、生を駆け抜ける猫という種である以上、家の猫姫とて、私よりも早くに『おばあちゃん』になる。
──彼女は、私の一番の宝物なので、出来る限りゆっくり歳を取って、出来る限り長生きをして欲しいと望んでる。
二十年でも三十年でも五十年でも生きて欲しい。猫又になってくれたっていい。
尻尾が増えて猫又になれば、彼女が長生き出来ると言うなら、今は一本しかない尻尾が、二本になろうが三本になろうが構わない。
寧ろ本望。
……とは言え、多分、そういう訳にはいかなくて。
どんなに彼女が頑張ってくれても、今から二十年弱の年月が流れた時には、きっと、私と彼女のお別れの刻はやって来る。
────今から、約二十年弱の年月が流れて──約二十年弱というのは、私の希望に基づく年月だけれども──、彼女とお別れの刻がやって来たら。
以降、私は恐らく、二度と、猫を飼わないと思う。
正しくは、飼えないと思う。
猫姫が、私の一番の宝物だから、という理由ではなく。その頃には私も、世間からは『おばあちゃん』と呼ばれる年齢に手が届いてしまう頃だから。
おばあちゃん、と呼ばれても逆らえない年齢が近付いて、でも新しい子を飼って、又、二十年近い年月が流れたら。
その時には私は、掛け値なしに老人。
自力では猫トイレに行くことも出来なくなってしまっているかも知れない、流動食でなければ食べられなくなってしまっているかも知れない、そんな老猫を、老人になってしまった己に、きちんと介護出来るか否かなど判らない。
寧ろ、老猫の介護など出来ない、と相成っている可能性の方が高いんだろう。
……だったら。……と、そう思うから。
私には、私の愛猫の面倒を引き継いでくれる子供もいないから。
──この考え方は、悲壮かも知れない。悲観的かも知れない。
でも、私が老いて面倒が見られなくなった時に、私が逝った後に、私の可愛い『子供』が路頭に迷うのは嫌だ。
だから、きっと。
私の一番の宝物な家の猫姫は、私の『最後の子』。
大事な大事な、私の最後の子供。
……すみません、英語が良く判らないから、これでいいのかも判らないけれど……。何か、変なことになっていたら御免なさい……(しょぼん)。
んで。
↑の大元? の日本語サイトさん ↓
お家でキャンドルを灯すことは、何方にも簡単に出来ることだと思うのです。
私も行うつもりです。
ですから、宜しければ、北京オリンピック開会式開始時刻に合わせて、お家の何処かで、キャンドルを一緒に灯して頂けたら。
──チベットに限った話ではなく。
祖先から、何百年、何千年と、連綿と受け継いできたモノを、望まぬ形で絶たれることは。
民族の血の流れを断たれることは。
何よりも、思うことを自由に語れず、思うまま自由に生きられぬことは。
人として、不幸極まりないことだと思うのです。
自由に語ることも、自由に生きることも、必ず責任が伴うことですけれど、その、伴う責任を抱える余地すらないということは、この上もなく悲しい。
Freedomという意味での自由も、libertyという意味での自由も、焦がれることすら出来ない世界、出来ない地域、それが、この地上に存在する、それは、この上もなく悲しく不幸なことであると、私は思います。
漸く、映画『earth』を観た。レンタルで。
劇場まで行きたかったけど、行かなかった一本。
行「け」なかった、ではなくて、行「か」なかった。
何でか?
鑑賞したら最後、本編終了後からお家帰るまで、否、帰っても、泣きみそになるだろうのが目に見えていたから。
……結果?
…………泣きました。泣きっ放しでした。延々泣いてました!(笑)
自分予測は正しかった! 再生前にデカいタオルを握り締めた自分を私は褒めた!(笑)
────文句の付けようがない、素晴らしいドキュメンタリー映画だったと思う。
と、同時に。
この上もなく愚かしい映像作品だとも思う。
この星の有り様は、人類の目から見れば、美しくて素晴らしくて、奇跡的で感動的な有り様だけれども、人類以外のあらゆる地上の生命体と、この星自身から見たこの星の有り様は、美しくもなく素晴らしくもない、当たり前のことでしかないんだろう。……恐らくは、だけれども。
この星をここまで追い詰めたことが、そもそも愚かしいし、人類以外には当たり前なのだろう全てを、素晴らしいと思うことは、多分、愚かしい。
けれども、ここまでこの星を追い詰めてしまったことを知り、この星の有り様を、美しく素晴らしいと思えることが、人類の素晴らしさなんだろう。
知恵のある生き物は、知恵があるからこそ愚かしくて、知恵があるからこそ素晴らしい。
──映画・earthのような物に触れると、この星に、人類という害獣は必要なんだろうか、と思うことがある。
でも、愚かしくも素晴らしく、この星とこの星の全てを美しい奇跡と感じ続けていられる限り、人類は、真実の害獣ではないとも思う。
訳の判らん夢を見た、とか言いながら、深夜三時に突然起きて来て、「急に、サッ○ロ一番が食べたくなった。買って来るから作って」と言い出し、「こんな時間にそんな物を喰らったら太るから止めろ!」と言えば拗ね、挙げ句、「買いに行くのと作るのと、どっちがいい?」と、釘バットでぶっ飛ばしモンなことをほざく馬鹿が、我が家には一匹。
……いい加減にしろよ(爽やか笑顔で、こめかみに青筋)。
どうしても喰らいたかったら、自分で買いに行って、自分で作って喰らって、自分で片付けろ。
夜中の三時のそんなリクエストに、にっこり笑って、「そうね♪」とか言ってやれる程、私は寛容ではない。
つか、大人しく寝ろ。